近世在方市の展開と元禄期商人
―羽州村山地方の場合―

横山昭男著

三 元禄期商人とその基盤

  1. 蔵元商人としての活動
  2. 商人間の金融
  3. 仲買人と産物集荷
  4. 豪商鈴木家と大石田河岸

元禄期における尾花沢の鈴木八右衛門は、この地方はもちろん、郡内でも有数の豪商であった。鈴木家が立地する尾花沢は、村山郡の北部に属し、冬は豪雪地として全国にも名高く、商品作物の末発達とともに、郡内でも生産力のもっとも低い地理的条件下にある。

しかし前述したように尾花沢は、寛文期を画期として幕府代官領の陣屋町あるいは宿場町として発達するとともに、背後には最上川の河岸大石田をひかえていた。元禄・宝永期の大石田は、最上川船の繁盛と独占でも知られるように、江戸期の中でも特筆すべき時代であったのである(25)

鈴木家は、同家所蔵文書によれば、すでに承応・明暦年間から土地を担保とする金銭の貸付を行い、やがてそれは、尾花沢村内をはじめ尾花沢周辺村々に発展した。一方延宝末年頃から郡内の在町商人への利貸活動もみられるようになる。この在町商人への金融あるいは商業活動は元禄・宝永年間にかけて急速に拡大したが、周辺農村の農民に対する零細な貸付件数も同様に増大しているのである(26)

これは貨幣経済がこの地方の農村にも急速に浸透したことの一面を物語るとともに、その後進地農村への影響を示すものと考えられる。しかしここでは、この地方の商品流通のあり方にかかわる鈴木家の商業活動に限ってとくに見ていくことにしたい。

鈴木家の金融および商業活動の範囲は広く、第一は蔵元商人として、第二には利貸経営および商品取引に関する側面、第三には大石田商人との関係とに分けられる。そこでまず蔵元商人としての活動からみることにしたい。

(1) 蔵元商人としての活動

鈴木家が出羽諸藩の蔵元および大名貸商人として大きな活動をみたのは、元禄・正徳年間である。鈴木家に年代記入のない「金銀貸入帳」二冊が残存するが、一紙文書との関連を考えると、元禄・宝永年間のものと推定される。この帳簿のみでは貸借のくわしい条件を知ることはできないが、その延金額は一〇件で四、四四〇両にのぼり、多額なものに新庄藩戸沢氏(二、〇五〇両)、山形藩松平氏(六八○両)などがある。これとは別に元禄十一年、江戸商人井口久左衛門とともに白河藩松平氏の江戸蔵元をつとめ、蔵元敷金として前者は二、六六六両、後者は一、三三三両を提供している(27)。諸藩は財政支出の膨脹のために、有力な特権商人との提携による蔵米の販売を行うとともに、借財の担い手として町人蔵元を置いた。一方大名貸商人である鈴木家はこれによって、敷金の利足をとり、蔵米の輸送を請負っているのである。次に蔵元商人としての活動に関する二つの史料を事例としてあげておこう(28)

(史料1・2)
(史料1)
   預り申米之事
 合弐百七俵 新庄御蔵米也
   代金四拾六両 但金拾両四拾五俵直段
 右慥預リ置申所実正御座候、代金子来六月廿日切急度相
 渡申候、為後日之一札如件
  天和三年亥ノ四月晦日       預リ主谷地村
                       矢作久兵衛(印)
    鈴木八右衛門殿

(史料2)
    請取申米前金之事
  合金四百八拾三両者     但小判也
 右者高力左兵衛最上知行米売渡申為前金、慥請取申所実正也、此
 代り米、来戌ノ霜月廿日切其時之相場を以、右金高之米少茂無相
 違急度相渡可申候、縦内外如何様之義有之候共、為前金請取置申
 代リ米之儀候得は、毛頭相違致間敷候、為後日証文仍如件
  元禄六年酉ノニ月八日            林  彦兵衛(印)
                       冨永 新平 (印)
                       山下 伊織 (印)
                       青木五郎太夫(印)
                       福井新五兵衛(印)
    鈴木八右衛門殿
    同 次郎兵衛殿
    同 六右衛門殿
  右返米之定(下略)

史料 1 は、谷地商人矢作が鈴木家より新庄蔵米を預り、その代金支払いを六月二十日期限で行うというものであるが、すでに蔵米が鈴木家の所有に期しているのは、蔵米の先買(大名貸引当)によるものであろう。

のちのもので、宝永五年十二月、「新庄御蔵米」の預り証文を同藩領の大窪村助右衛門・長兵衛が鈴木一八と古河七右衛門にだしたものがあるが、これは「蔵入預り」で、同村の年貢米の一部であろう。これも鈴木家の同藩への大名貸に対する返済分であるとみられる。宛人の一人古河は谷地の商人で、蔵米販売にかかわる仲間であろう。蔵米の販売の仕方はまだ十二月の時点では決まらず、鈴木家の指示次第となっていることがわかる。

史料 2 は、村山郡に三、○○○石の領地をもつ旗本高力氏へ、四八三両を貸付けた証文である。旗本高力左京は、寛文八年以後、深堀・大寺・高楯(現山辺町)を知行地としていた。この高力氏の借用金は、「知行米」の売却を前提とした「前金」であり、鈴木家にとっては、年貢米を引当とした貸付金であるともいえる。しかしこの「前金」も、同年の年貢米で返済されるのではなく、翌年十一月以後六九両分づつ七年間で、その時の相場に換算し、米で返済するのである。ややのちのものであるが、享保六年七月、谷地の渋谷九郎兵衛が鈴木家にだした証文は、同家一五人扶持米一二〇俵を西丸御蔵からうけとって借用し、その代金五〇両の返済は五両宛一〇年賦にするというものである(29)。鈴木家は新庄藩の御用商人として活動するだけでなく、それを通して同領内の谷地商人を金融的に支配した一面を示す事例の一つであるといえよう。

また正徳二年十一月、船町宿安部三右衛門・同管覚より、鈴木八右衛門外二名(同族)にだした「預申米之事」によれば、山形御蔵納米二、二六八俵五分二厘について、「拙者土蔵へ入置預申処実正御座候何時成共御勝手次第急度相渡可申候」とある。この時の山形藩主は堀田正虎であるが、尾花沢の鈴木家が先の蔵米を山形において購入した分か、それとも大名貸に対する蔵米の返済分かのいずれかであろう。いずれにしても鈴木家は、村山地方諸藩の蔵米を、蔵元商人として、または大名貸によって大量に買い取り、商人米として最上川を下し、上方・江戸方面へ売却していたのである。

正徳二年正月、鈴木家は元山形藩主で白河藩松平氏に対して、四、一八八両余を無利足一〇年賦の大名貸を行っている。松平氏は当時、旧領の村山地方に三万石の飛地領を有したので、もちろんその年貢米は最上川を下したので、正徳三年の川下し予想高は一万八、○○○俵であった。この多額の大名貸の返済は、蔵米による返済であったことが充分考えられる。

いずれにしても、鈴木家はその多額の資金によって、郡内諸藩の蔵米の流通および販売の主導権をにぎって活動した。まさに遠隔地間商人の基盤とその性格の一面を示すものである。

(2) 商人間の金融

豪商鈴木家の活動は、大名貸にともなう蔵米の販売のほかに、村山地方における仲買的商人への金融とそれらの商人を通じて特産物商品を集荷し販売することであった。そしてこの金融と在町商人との結びつきの発展は、元禄・宝永期における村山地方の在町を中心とする地域内の市場の急速な発達を前提としていたとみられる。

第一表は鈴木家の主な金銭貸付先を、残存する鈴木家文書の中の一紙文書によって、一○両以上の大口貸付のみに限って整理したものである。周辺農村との零細な貸付関係を示す証文は多数にのぼるが、一〇両以上の貸付先は、仲買的商人以上のものであり、しかも東根・天童・谷地・山野辺・左沢・船町・山形・酒田など、とくに郡内の各在郷町・城下町に及んでいることが注目される。大石田商人との関係についてくわしくは別にのべるが、延貸付金額の割に件数が多いのは、川船を担保とする金融である。鈴木家の貸付活動の盛んな年代は、凡そ延宝末年から享保初年におよび、とくに元禄・正徳年間(一六入八~一七一五)がその絶頂期であった。

第 3 表 鈴木家の主な金銭貸付先
件数
( )内大石田
延総金額
( )内大石田
主な貸付先と件数・金額
延宝8年(1680)

元禄2年(1689)
16 (1) 1,317両
(40両)
谷地柴田弥右衛門(3件840両)、左沢芳賀勘兵衛(3件71両)、谷地矢作三郎右衛門(3件70両)、谷地丹野三七郎(1件40両)
元禄3年(1690)

元禄12年(1699)
16 (6) 1,423両
(180両)
谷地柴田弥右衛門(1件1060両)、山野辺治郎兵衛(3件163両)
3,149両 白川藩蔵元(1件2,666両)、高力左兵衛(1件483両)
元禄13年(1700)

宝永6年(1709)
17 (6) 1,696両
(223両)
上村儀右衛門(1件500両)、谷地柴田弥右衛門(3件453両)、山形近江屋仁兵衛(2件210両)、谷地田宮五右衛門外(1件200両)、原田藤九郎(1件100両)
宝永7年(1710)

享保4年(1719)
16 (1) 1,719両
(20両)
酒田玉木金右衛門(2件600両)、谷地石川五兵衛(2件220両)、天童加賀屋平四郎(2件110両余)、谷地和田作兵衛(1件100両)
4,188両 白川藩(1件4,188両余)
享保5年(1720)

享保14年(1729)
5 360両 稲村七郎左衛門代(1件100両)、小野惣左衛門代(1件40両)
注 鈴木家文書、1件10両以上の一紙文書の集計による。大名貸と商人貸を区別した(大名貸は下段)。残存するものであるため、すべての貸金合計とはいえない。同家文書に「金銀貸入帳」(冊子)がある。一紙文書と重なるものもあると思われるが、冊子はこの表から除外した(本文注(26)参照)。

鈴木家が貸付関係をもつもっとも大口の商人は、谷地の柴田弥右衛門で、元禄元年十二月、鈴木家より、二件で五四〇両の借入れを行い、同年末に返済する証文をかわしている。また元禄六年十一月には、鈴木家八四〇両のほか、渋谷九郎兵衛二〇〇両、宮兵衛二〇両に対しての計一、〇六〇両を一四か年賦の契約で借用し、宝永二年正月には、二件で三五〇両のうち、五〇両は田地を質として借用している。柴田家は大町村(幕領)の名主で、当時谷地の豪商の一人であったが、その経営についてはほとんどわかっていない。鈴木家との借用証文でも、具体的な内容は不明であるが、左沢の商人芳賀勘兵衛が尾花沢の鈴木家から借用する際の請人となったり(天和三年十一月)、鈴木権四郎、村田太郎兵衛と無尽仲間を作っているのをみても(宝永四年)、諸産物や上方商品を取扱う有力商人であったといえよう。

仲買商人への金銭貸付の場合、その条件としての返済期限は一年以内が大部分で、元禄六年十一月の柴田弥右衛門の一、〇六〇両の十四年賦返済や同十五年八月の山形・近江屋仁兵衛の一六〇両の八年賦返済の証文は特例とみられる。金銭借用の証文はほぼ次のような形式をとっている。

(史料3・4)
(史料3)
    預り申金子之事
  一、金三拾両者     但壱分判也
 右之金慥預リ申所実正御座候、来七月晦日前急度相
 渡可申候、右相定之通、於此金子ハ少も相違申間敷候、為後日
 仍如件
  天和弐年
    戌ノ十一月廿三日     谷地預リ主
                   矢作三郎右衛門(印)
                 請人
                   同   久兵衛(印)
    鈴木八右衛門殿
 右之金利足壱ヶ月拾五両ニ壱分宛相添急度返弁可申候以上
    戌十一月廿三日

(史料4)
    預リ申金子事
  合金三百両者     但壱分判也
 右之金子慥預リ申所実正明白御座候、来極月急度相渡
 し可申候、為後日仍如件
  元禄元年
   辰ノ十二月朔日         柴田 弥右衛門(印)
                   同    弥吉(印)
    鈴木八右衛門殿 参
 一、右之金年壱わり之利足相定、元利共極月急度相渡し可
   申候

二つの史料は、いずれも谷地商人への資金融通であるが、尾花沢鈴木家の貸付金は、特定の産物買入れの代金としてよりも、特に名目のない、つまり金利を目的とした商業資金の貸付が圧倒的に多い。これはこの時期の鈴木家の経営の性格を知る上でも注目すべき点であろう。その場合の利足勘定は、延宝・天和・元禄年間とも、一か月一五両に一分、年利は一割が普通となっている。しかし宝永年間のものには、一か月二〇両につき一分、一〇〇両につき一両一分(一〇両につき一分)、また年利として一割五分としているものもある。利子の割合は年代や貸金事情、例えば、はじめ田地書入れとし、のち利米としてとる場合もあったが、しかし年代により一定の相場があったようである。いずれにしても高利貸になっていることは明らかで、利貸商人の急速な発展の基盤の一つもここにあったといえよう。

返済期限は三か月から一年間までいろいろであるが、「御用次第」あるいは「入用次第」に返済するというものが、全件数の約半分におよぶ。このことは商人間の一時的な商業資金の貸借も、広く容易に行われたこと、そしてその前提には、地域間の商人の活動と物資の流通とともに、広く貨幣の信用取引が展開していることを示すといえるであろう。

(3) 仲買人と産物集荷

鈴木家は村山地方の特産物を集荷し、上方商品の販売に当る在町商人へも資金の貸付を行った。諸藩の蔵米の大型の買入れとその江戸輸送および販売については先にみたが、ここでの仲買商人への貸付金は主に青苧・米・大豆の「買金」といわれ、作徳米の米や特産物がその中心である。次にその関係史料からみることにしたい。

(史料5・6)
(史料5)
    預り申米大豆之事
 一、大豆 七俵九升            納三斗入
    右山家村より請取預置
 一、大豆 拾弐俵壱斗八升         納三斗入
    右沼沢村より請取預置
 一、米四俵 大豆壱俵           納三斗入
    右当五日町作助方より預リ置
 一、米五俵 大豆五俵           納三斗入
    右当五日町惣右衛門方より利足預リ置
  〆米九俵 大豆弐拾五俵弐斗七升
 右之米大豆慥預リ申所実正御座候、御断次第急度相渡し可申
 候、少茂相違無御座候、重而米大豆相渡し申候ハヾ、本紙引替可
 申候、為後日仍如件
  天和弐年              天童三日町
    戌極月廿九日          後藤 助三郎(印)
  鈴木八右衛門殿

(史料6)
    預リ申金子之事
  合金拾三両者     但壱分判也
 右之金子慥預リ申所実正也、右之金子来七月中、青苧御買被
 成候節、急度御返済可申上候、為後日仍如件
                山野辺村金預り主
  元禄十壱年
    寅正月十一日          同 治郎兵衛(印)
  鈴木六郎兵衛殿

史料 5 は、鈴木家が天童三日町の後藤助三郎を通して、米九俵・大豆二五俵余にあたる代金を、前金として貸付けていたものとみられる。またその前金は、天童五日町のほか、山家村・沼沢村に渡っているのであり、五日町の場合は個人名も分かり、惣右衛門は利足も返済しているところをみると、具体的な貸付証文が作られ、三日町の後藤がその仲立ちになっているのである。

また史料 6 は、一三両の貸付金を、翌年七月「青苧御買」の時期に返済するというもので、治郎兵衛にとっては、青苧取引の前金であり、これがまた零細な近村農民から集荷する資金となったものであろう。山野辺村の治郎兵衛は同年二月「米買金」として二〇両を預り、一〇両当り四一俵の相場で勘定する旨の証文を尾花沢村の鈴木清兵衛にだしている。治郎兵衛は青苧だけでなく米穀買いも行う仲買商人であった。

村山地方でも青苧栽培の盛んな地域は、山野辺や左沢方面で、この地方の中心的在町に、仲買商人が発展した。延宝・天和年間に鈴木家の貸付金をうけている左沢の芳賀勘兵衛も、その具体的な内容は明示されていないが、七、八月の返済期限が多いのは、青苧販売の時期に決済することからきたものと考えられる。また「青苧買金」は、置賜地方宮内の後藤金助に対し、享保元年九月と十月に、一〇〇両と五〇両の二回、出金したこともある。鈴木家の青苧の集荷も広範囲にわたっていたのである。

先の青苧買金では、とくに利足の契約はないが、宝永七年二月、谷地の和田作兵衛預りの一〇〇両は「来七月、青苧御調被成候節急度相渡可申候」とあり、利足は一ヶ月、二〇両につき一分の積りとなっている。これは、手代商人を介して青苧を買集めるものとは異り、利貸の一面を有する金融であった。

この地方の特産物の販売にあたる仲買商人の中には、一方でその在町を中心に、上方商品の販売にあたるものもあった。宝永三年十二月十六日付の「預置申古手代金之事」は、長井の宮村宿加藤八右衛門が尾花沢鈴木清次郎にだしたもので、代金二〇両と五五二文のうち、三分の一は翌年二月中、三分の二は六月中に、古手販売のうえ返済するというものである。また享保二年十一月、天童三日町の加賀屋兵四郎は、作り塩一二〇俵の代金として八二両二分の借用証文を鈴木八右衛門にだしている(30)。翌年三月晦日に元金の返済を約束しているが、兵四郎は塩販売の下請けにあたっているもので、長井の宮村の八右衛門と同じである。天童の(兵)四郎は享保三年十二月、玉ノ井理兵衛(酒田)からの買米代金としての預り金一、五〇〇両の利足として、鈴木八右衛門に二二両二分も支払っているところをみると(31)、大規模な米商人であったことも知られるのである。

(4) 豪商鈴木家と大石田河岸

尾花沢の豪商鈴木家の経営活動の基盤を、商人貸付金の地域的分布でみると、谷地地方および天童・東根地方が大きいが、次に注目されるのが大石田である。元禄・享保初年における鈴木家の貸付金は鈴木家の所在する尾花沢、および大石田周辺農村がもっとも多い。一両前後の零細な貸付金が大部分だが、一〇両前後の村貸・武士貸も少くない(32)。ここではとくに商人への貸付金を中心に問題としているので農民への質地貸にはふれないが、しかし大石田との関係は他の在町商人とは異り、船持商人への貸付金が大きな比重を占めている。元禄末年、大石田の川船は大小二九二艘といわれ、江戸期を通じて川船の所有数は最高であり、その繁栄振りを知ることができる。しかしこの時期の川船持商人の経営や階層の実態についてはほとんど不明である。そこで尾花沢の豪商鈴木家と大石田の船持商人との貸付金関係の史料は、その点でも重要な手掛りになるといえよう。よってまず鈴木家の大石田船持商人に対する二つの貸付金証文からみることにしたい。

(史料7・8)
(史料7)
    預り申金子之事
 一、金四拾五両      但壱歩判也
 右之金預リ申所実正也、来酉ノ霜月廿日前相渡可申候、若
 金滞リ申候ハハ、拙者所持仕候大船五人乗壱艘、四人乗弐艘諸道
 具共急度相渡可申候、何様之儀御座候共於此金者少茂違乱申間
 敷候、為後日請人相立仍如件
  元禄五年           大石田かり主
    申極月十九日           惣右衛門(印)
                 同村請人 長三郎 (印)
                 同村同  喜左衛門(印)
    鈴木八右衛門殿      同村同  喜兵衛 (印)

(史料8)
    相渡申船之事
 一、末年合舟大船壱艘、辰年合大船壱艘、合弐艘諸道具共不残
   相渡申候
 右者先式右衛門申暮金拾八両預リ酉ノ暮返済可致候処済兼申
 付、右船弐艘諸道具共酉暮相渡申候、然所右之船戌年壱ヶ年、
 冨樫長三郎・柴崎五郎八・二藤部庄次郎以御断申候而預リ置申
 候者積荷仕忝存候、則当暮右之船預リ置申候儀成兼申候間、返遣
 申候間、以来右之船おゐて少茂構無之候、貴殿船紛無御座
 候、為後日証文請人相立申候、仍如件
  元禄七年戌極月廿七日
                  大石田村
                    小座間忠右衛門(印)
                  請人
                    清水 喜左衛門(印)
    鈴木八右衛門殿
 右之船雪中候問、年明候ハハ、御断次第何時成相渡(ママ)可申候

元禄・宝永年間の鈴木家文書の中に、川船を担保とする借金証文が一〇数点残っている。史料 7 は大石田の船持商人松田惣左衛門が十一か月余の期限で四五両を借用し、返済不能の場合は、大船一艘、中船二艘を引渡すというものであった。川船を担保とする借用金の中でもっとも多額なものは、元禄四年十二月二十五日、柴田喜兵衛が七七両を借用し、返済不能の時は、五人乗大船三艘、四人乗中船三艘の計六艘を諸道具とともに引渡すというものである。両者の借用金は担保とした船数からいえば単純に見合った額になっていないが、船の代価は使用年数なども計算されていると考えられる。川船数も惣左衛門は三艘、喜兵衛は六艘以上を所有していたことはいうまでもない。船持商人たちがこの多額の借金をしたのは、河岸商人として、経営の行き詰りによるもの、また船持経営にかかる一時の損失もあったであろう。船持商人の借金の時期がすべて年末で ある点も借金形態の特徴を示している。

史料 8 は、元禄五年暮の借用金一八両の返済が不能となり、川船大船二艘を諸道具とも引渡した証文である。元禄六年十二月にも、「年貢指詰り」を理由にこの一八両を借用した証文が残っているが、この船二艘は、同六年の一年間、同じ川船持である冨樫・柴崎・二藤部らが借用のうえ使用したが、今回これを鈴木家の手に引渡すことにしたというものである。また大石田の元船持には、一旦鈴木家の手に渡った川船を買戻すために借金をするものもみられる。

このように担保とした川船が鈴木家の手に入る形のほかに、売買の形式でも川船が鈴木家の所有となった。元禄十六年正月十五日付の「売渡申舟之事」は、大石田村松田惣左衛門が、請人(柴田喜兵衛・清水喜平次)と舟役人(阿孫子仁兵衛)を証人として大船一艘・中船二艘の計三艘を、船跡・諸道具とともに、代金七八両一歩で売却した証文である。この惣左衛門は前述したように、この川船三艘を質物として鈴木家から借金したことのある船持商人であった。

尾花沢の鈴木家が、実際に川船を何艘所持したかは明らかでないが、貸付金の質物としての川船が、鈴木家の所有となった例もあり、また鈴木家が直接川船を買い取った証文などからみても、宝永年間には一〇艘以上の川船を所有したと推定される。しかしこれらの川船は大石田に預けられ、鈴木家は船主として収益を得る経営も行っていたのである。

大石田の船預り人は鈴木家に対し、「預り舟勘定」を行い、運賃収益から舟乗給金その他の経費を差引き、残りを引渡す計算をしている。この部門の鈴木家の総収入は不明であるが、船主としての鈴木家は、預け舟の収益ばかりでなく、米・大豆などの自己商品の川下しにも、当然利用されたであろう。鈴木家は遠隔地取引商人として交通手段も掌握していたのである。

大石田における船持商人の盛衰もはげしかった。それは船持商人の唯一の財産である川船の移動にもみられるが、大石田四日町村の問屋沼沢又左衛門の没落はその象徴的なものともいえよう。同家の破産を示す史料「覚」によれば、借用金額の総計が三九七両、米九一俵とあり、借用金の借入先は、鈴木八右衛門一族・仲間への一二〇両を筆頭に、渋谷九郎兵衛(谷地)五〇両、設楽太右衛門三七両など二五件にのぼり、商品は運賃米・年貢米の預りなどからなる。これらの借金・米の返済不能の代りに、「拙者所持仕候田畑・居屋敷・家土蔵・川船四艘・家財等分散被成可被下候」とある。すなわち、すべての財産を処分するとしている。この史料の年代は、「丑正月四日」とあるが、年代は宝永六年であろう。

沼沢は宝永二年十二月に四人乗船一艘と諸道具・船跡を代金一〇両で鈴木家に売渡したが、追て書には「金拾両へ壱割五分之加利足、来戌ノ五月廿日前急度返済致、舟井舟跡諸道具共請返し申筈御約束仕候(33)」とある。売買の証文でも、金子預りの証文と同じ内容の利貸形態をとっている。しかし期限内の返済の事情は明らかでないが、この頃から、問屋沼沢の経営不振が始ったともみられる。大石田問屋沼沢の諸商人との関係は広いが、尾花沢鈴木家ともっとも緊密であったことは注目すべきであろう。

このことは、この地方最大の豪商鈴木家からすれば当然ともみられる。しかしとくに注意されるのは、鈴木家の経営は、最上川流域諸藩の大量の蔵米の販売にかかわり、また商人米・大豆および青苧取引を行い、これを河岸大石田から最上川を下し、酒田から上方・江戸に輸送する遠隔地間の商業活動に大きな基盤をもっていたということであろう。大石田の船持商人の急速な発展と鈴木家の経営は深い結びつきをもっていたのである。鈴木家の村山地方各在町商人への金融活動も大きかったが、その背景には、最上川がその下流から、村山地方にのぞむ咽喉部に位置し、元禄期に発展の絶頂に達した河岸大石田があったことを見逃すことができない。

享保期に入ると、最上川上流の河岸の発達によって大石田は危機に直面し、最上川船差配権を失った享保八年はその画期であった(34)。尾花沢の鈴木家はこの頃急速に衰え(35)、新たに台頭するこの地方の代表的な商人地主として柴崎弥左衛門が知られているが、大石田船持商人との深い関係はみられない。それはまさに時代の条件の変化を示すものである。