近世在方市の展開と元禄期商人
―羽州村山地方の場合―

横山昭男著

  1. (1) 松本四郎・林玲子「元禄の社会」(歴史学研究会・日本史研究会編『講座日本史』4)では、元禄期の商品流通の性格は、遠隔地間商人の活動にみられること、小農経営を前提としていること、また畿内における高度な加工技術は、権力の規定のもとに展開した特殊な発展であり、幕藩制的経済の結果であったとみる。これに対して脇田修氏は、その著『元禄の社会』によって、元禄期には国内市場が展開したとし、畿内の在郷町では、すでに市商業は消滅し、農民の小商品生産をもとに、小ブルジョア的市場が形成されたとしている(第三章)。また小村弌氏は、越後の研究で、一七世紀後半とくに元禄期の在郷町の発展は、六斎市の開設をともない、近世中期の商品流通も、六斎市を重要な場として行われたことを指摘されている(同氏「越後の在郷町」、『講座・日本の封建都市』第三巻所収)。
    なお筆者は、在町と在郷町の概念について、厳密には、前者は幕藩制成立期の領主的市場の一環ととらえ、後者は一定の農民的商品流通を基盤として発展した町ととらえている。しかし本文の用語の使用については、必ずしも統一できなかったことを断っておきたい。
  2. (2) 『寛政重修諸家譜』第七輯、柳橋家文書「御代官御姓名并御陣屋発書記写」。
  3. (3) 『北村山郡史』上四二四~五頁。青木美智男「羽州村山地方における幕領・諸藩領の展開」(駿台史学一六)。『山形市史』 中巻、第二章第一節、第一七表(山形領と幕領の変遷)。
  4. (4) 拙著『近世河川水運史の研究』第一章第三節。
  5. (5) 長井政太郎『山形県の市の研究』(昭一七)。
  6. (6) 菅沼定昭「上山見聞随筆」、『上山市史』上巻六五六~六〇頁。
  7. (7) 「最上義光分限帳」(『山形市史』史料編1)。
  8. (8) 尾花沢市史編纂委員会編『尾花沢風土記』四三頁。
  9. (9) 『山形県史』資料編13、三九六頁。
  10. (10) 鹿野家「御用留帳」(今田信一編『戸沢藩御触書類纂』第五集)。
  11. (11) 「工藤弥治右衛門手控」(河北町誌編纂資料編第三二輯)。
  12. (12) 正保四年「出羽国知行高目録」上、千秋文庫蔵(『山形県史』近世史料3所収)には、寒河江村とのみある。楯北村などが行政村として独立するのは、寛文検地以後とみられ、「天保郷帳」にも「古者寒河江村之内」と註記されている。
  13. (13) 『山形県史』資料編13、五五九頁。
  14. (14) 秋元文庫、「村方差出明細帳」(『山形市史編集資料』第九号)。
  15. (15) 『河北町の歴史』上、四六二頁。
  16. (16) 長井政太郎氏前掲書、五四~五頁。
  17. (17) 平清水家文書、『山形市史』中巻、五五九頁。
  18. (18) 天明七年~寛政六年、「尾花沢附差出明細帳上」、『山形県史』資料編13、所収。
  19. (19) 最上氏の改易に際し、山形藩領内で周辺の諸大名の監視のもとに接収された城は、山形城のほか、二一にのぼり、そのうち村山郡内のものは一○か所であった(『山形市史』中巻一一二~一一四頁)。
  20. (20) 小村弌氏前掲論文。
  21. (21)(23) 鹿野家文書、「御用留帳」(前掲書、所収)。
  22. (22) 長井政太郎氏前掲書、五四~五頁。鹿野家文書「御用留帳」(前掲書、所収)。
  23. (24) 長井氏前掲書所収、安永六年「願書控」。
  24. (25) 拙著、前掲書、第一章第三節二。
  25. (26) 拙著、前掲書、一〇一頁第9表参照。
  26. (27) 鈴木家文書、元禄十一年八月十八日、「証文之事」。これは井口より鈴木へだしたもので、この文面には、臨時の御用金が あった場合も、敷金の割合で両者がだすこと、「江戸表諸事造 用入目銀」はすべて江戸から尾花沢へ支払い、御屋敷から受取 る利足および運賃の出目は、蔵元敷金高に応じて別け合うこと などを書き上げたものである。以下断りのない史料は、すべて 尾花沢、鈴木八右衛門家文書である。
  27. (28) 鈴木家文書、享保六年七月八日「借用申金子之事」。
  28. (29) 鈴木家文書、史料1以下の史料はすべて同じ。
  29. (30) 鈴木家文書、「預り申塩代金之事」。
  30. (31) 鈴木家文書、享保三年十二月「請取申金子之事」。
  31. (32) 拙著、前掲書、一○一頁、第九表。
  32. (33) 鈴木家文書、宝永二年十二月二十三日「売渡申舟之事」。
  33. (34) 拙著、前掲書、第二章第一節一。
  34. (35) 鈴木八右衛門(道祐・俳号清風)は六一歳で隠居したが、その正徳元年十二月、長子八右衛門(八一改め)に対し、「譲り状之事」を残した。これは、次男八次郎のほか四人への財産分与と、家訓的な「遺言」を認めたものである。それによると譲り金は、八次郎・八三郎が合計五、○○○両、当年生れの子(五〇〇両)、おえん(五〇〇両)、おな起(三〇〇両)で、ほかに屋敷・田畑の分与もある。おえん以下の譲り金は、五か年の間に請けとることにしている。しかし正徳三年十月晦日に、道祐が八右衛門に宛てた「請取申手形之事」によれば、八三郎への譲り金(二、五〇〇両)も五年間で請け取ることにしていたことがわかるが、これについては、はじめ一、五〇〇両は三年間で約束通りであったが、残り一、○○○両は、二年から三年に延期している。隠居した道祐は妻と二男以下の子供とともに分家した形であるが、長子八右衛門への遺産の総額は不明である。しかし子供たちへの譲り金からも遺産額の大きさが推測できよう。しかしまた譲り金の延期などは、すでにこの頃、経営の危機が訪れていたものとも思われる。なお鈴木清風の伝記および文学活動については、芭蕉・清風歴史資料館編『芭蕉と清風』がくわしい。鈴木家文書の利用にっいては、尾花沢・鈴木正一郎氏に多大の便宜をいただいた。末文となったが深く感謝したい。
  35. 昭和五十八年十月