近世在方市の展開と元禄期商人
―羽州村山地方の場合―

横山昭男著

二 在方市の展開

  1. 定期市の発達
  2. 在方市と在町の発達
  3. 在方市の衰退

(1) 定期市の発達

村落の発達は、戦国期から近世初頭にかけて著しかったが、定期市もそれを基盤に、戦国期の小城下に発生したものが多い。史料的にこれを裏付けるものは少いが、市神の残存と市の古名(地名)はその重要な手がかりとなるであろう。

長井政太郎氏が昭和十年代に調査・研究したものによれば(5)、山形県内で残存する市神を地域別に数えると、村山地方が三二か所で圧倒的に多く、置賜七、最上三、庄内二となっている。市神は市人の繁昌と市場の守り神として祀られた自然石が大部分で、太神宮・湯殿山または地蔵尊にあてたものもあるが、近世後期に祀られたとみられるものも少くない。上山十日町の市神には永享三年(一四三一)の年号があり、楯岡本郷の二基にはともに享保五年の年号がある。上山のそれは、六角の石柱で傘石を有するもので、はじめから市神に祀られたものではないと思われる。城下裏の松山から寛文年間に移されたといわれ、市場隆盛の時期を伝えるものといえよう(6)

市神が祀られているところは、近世の城下町は少く、村山地方でも東根八・谷地八・楯岡六・尾花沢五・天童四・山野辺三など、いわゆる在郷町に多いことが注目される。また近世期の在町ではなく、近世の在郷市の発達の時期には市がすでに失われている長谷堂・船町(もと中野)・高擶・溝延・長瀞・大久保・延沢・野黒沢・大石田(井出)などにも存在することは、その古さを物語るといえよう(図参照)。後者の各村はほとんど戦国期に楯城が築かれたところである。延沢には延沢氏が居城し、能登守満延の時代に山形の最上義光の臣下となり、尾花沢・大石田地方約二万石を領した。延沢城はその後最上氏の重臣となった光昌の居城となって、元和八年の最上氏改易まで続いている(7)。延沢の三日町・九日町は少くともこの頃まで、尾花沢地方の市場の中心として発達したと考えられる。また古殿は、満延の父満重の隠居所が置かれたことに由来する地名という(8)

また宝暦十一年の高擶村明細帳には、「当村古来より市場ニ而、壱ヶ月二六度宛市立申候、近年七月十四日計り市立申候」とある(9)。高擶に六斎市が開かれていた時期はこれだけでは明らかでないが、高擶には戦国期以来の高擶城(最上氏二代直家の庶子・義直)があり、慶長年間には最上氏の家臣宮崎内蔵丞(四、○○○石)が在城していた。これも廃城となるのは最上氏の改易以後であり、六斎市はその名残りであった。明和六年に再び市立を願いでた書上によれば、高擶の六斎市は「元禄年中迄月々市相立候処、夫より中絶(10)」したともあり、近世初期を通じて、戦国期以来の市は続いていたとみられる。

このような記録は多くないが、これと類似の例は外にもあったであろう。宝永六年の「工藤弥治右衛門手控(11)」(谷地、工藤小路村名主)によれば楯岡市について、「二日町、是ハ常には立不申、年に二度迄」とあり、楯岡市は、五日町・十日町にちなんで五と十の六斎市があるが、二日町の市は今はない、という意味が込めれれているのである。戦国期の小城下の市は、近世的な市の整備によって、廃止または整理された。それは近世中期以降、農村の新たな商品流通の発達や常設店の普及によって、六斎市が歳市化して衰退した事情とはもちろん区別すべきであろう。

第 1 表 村山郡内の市の分布と市日
市場名 市日 備考
尾花沢 1, 7 6 斎市 中組、梺組(1)、上組(7)、各市とも場所をかえて開く
楯岡 5, 10 6 斎市
東根 3, 8 6 斎市 もと12斎市
白岩 3, 6, 9(10) 9 斎市 中町(3)、上町(6)、新町(10)
左沢 4, 9 6 斎市
谷地 2, 4, 6, 8, 10 15 斎市 大町村(3, 10) 北口村(2, 6) 荒町(4, 8)
寒河江 1, 3, 5, 7, 9 15 斎市 楯北村新町・七日町
天童 1, 3, 6, 9 12 斎市
長崎 4, 8 6 斎市
山野辺 2, 4, 6, 9 12 斎市 寛文年間 2, 6, 9 の 9 斎市
上山 2, 6, 9 9 斎市 「上山見聞随筆」に、4 もある。二日町、十日町、下十日町、新丁各三斎市
注 「御尋ニ付書上」(文政元年)による。備考は各村明細帳などによる。阿部孫七手控(天明年間)と比較すると、上記とちがうところは、白岩が、3, 6, 10、山野辺 2, 6, 9 、上山 2, 4, 6, 9 のみである。

近世の定期市場は、元禄・宝永年間にもっとも発達したとみられる。先の「工藤弥治右衛門手控」によれば、郡内の在町市場として、天童・寒河江・左沢・白岩・東根・楯岡・尾花沢をあげ、後年のものであるが「御尋ニ付書上控」(文政元年)によれば、以上のほかに上山・山野辺・長崎・谷地をあげ、その市日は第 1 表の通りとなっている。これらの市の中には近世後期になると、定期市の本来の姿を失うものが現われたが、戦国以来の市は整理され、近世の在郷市として確定された市日とその分布を表わしているとみてよいであろう。谷地の近村で上山藩(上郷)の小泉村差出帳(元禄五年)に、「当村近郷市場の事」として、寒河江市・白岩市・谷地市・天童市をあげているのは、藩城市場に限らず郡内市場を前提としていた点を知る上で興味がある。

(2) 在方市と在町の発達

江戸初期の村山地方の在方市について記録した史料はほとんど知られていない。しかしのちの記述からも知られるように、寛文・元禄期には、いわゆる在町市場も画期的な発展をみたと考えられる。この時期に急速に台頭する在町商人も、直接にはこの時期の在方市の展開を舞台にしたものといえよう。その新たな展開とは、西廻海運の整備と内陸水運の発達によって、各地の特産物の発展を促し、東北の農村も急速に全国的な商品流通の一環にくみ込まれていったということである。

寒河江は、中世―戦国期には大江氏の城下であり、天正十二年、最上氏の支配に属したのちも、寒河江肥前守(二万二、○○○石)の事実上の城下として、元和八年まで存続している。正保四年知行高目録によれば、幕府代官松平清左衛門支配の寒河江村は一万二、二六四石余(寺社領三、三九三石余含む)とあるが、のちに楯北・楯西・楯南の各行政村に区画されている(12)。いわゆる寒河江市は、楯北村(村高四、七四三石余)を中心に開かれていたが、次にまず元禄二年六月の「楯北村書上帳」に記載された関係部分をあげておきたい(13)

一新町市日
九日・十一・廿九日、毎月三日宛相立申候、但正月十一日、十
一月十一日、又小ノ極月廿九日ニハ立不申候
同町六月十一日・十三日・十五日、以上三日ツゝ年々市立申候
一七日町市日
七日・十七日・廿七日、毎月三日宛相立申候但旧正月七日、
同十七日、七月七日、十月十七日ニハ市立不申候
商売の品、常之市ニハ青物・木綿類・小問物・古手・穀物・薪
・茶・塩・いさば・時々之農具、何れも少々ツゝ出申、外ニ
(ママ)不申候
七月御日市ニハ、かたひら・瀬戸物・脇差之類、ぬり物・盆中
入用之(物)常之市より少多出申候、商売之物定り無御座候
(元禄二年六月「楯北村書上帳」より)

楯北村の中に、内楯村(元禄二年戸数六五)・新町(同一〇四)・石川村(同一入)・七日町(同五八)があり、元禄二年には四人の庄屋がいた。寒河江市は、一・三・五・七・九の奇数日を市日としたが(一五斎市)、楯北村ではそのうち新町が九・十一・二十九、七日町が七・十七・二十七の各三斎市が開かれ、残りの九斎市が楯西村外で市立されている。また一年間で市立しない日を、新町では三回、七日町では四回、日を指定していた。その理由は明らかでないが、明和五年の同村村指出帳に、新町には毎年六月九日から十五日まで紅花市が立つこと、七月七日から同十一目まで毎日市が立つこと、後者については「見世役」を上納する定がある。元禄二年書上に、特殊市の記載はないが、しかし休市はそれが前提になっていたとも推定される。

紅花・青苧などの特定商品の市についてはのちにややくわしくのべるが、楯北村の市での売買商品をみると、毎月の六斎市―「常之市」では、付近の農村からだされる青物・穀物・薪のほか、木綿類・古間物・古手などの衣料品、茶・塩・いさばなどの食糧品からなり、「何れも少々ツゝ出申」とある。ここでは日常必需物資が多種類にわたって交易されていることが注目される。また上方からの下り物が、交易品の大きな比重を占めている点もうかがわれる。そして七月の「御日市」は、お盆前の市として、「常之市」とはちがい、かたひら・瀬戸物などの上等品が多く、毎月の市と異り品物も定っておらず、珍しい品も並べられたということはもっともなことである。

楯岡は戦国期の楯岡城下に系譜をもつ在郷町で、楯岡村と呼称したが、城下の地域を本郷、羽州街道沿いを「楯岡村町」とのちに区画された。宝暦十一年の村明細帳によれば、全村高六、五〇〇石余、家数六〇九軒とあり、市は五・十の六斎市が町分に立ったが、「此市ニ而、木綿・古手・茶・穀物其外売買仕候(14)」との記述は、交易品を具体的にあげている点で興味がある。

谷地は戦国期に、白鳥氏の城下として整備・発展したが、天正十二年(一五八四)、最上氏に滅ぼされたあとは一在町となり、元和八年以後は幕府領・新庄藩領に分割して支配された。正保四年の高目録では、幕府領の谷地村(九、三九六石余)は一本で、新庄領は北口村(一、九五〇石余)・工藤小路村(一、一八八石余)に分けられている。しかし幕府領ものちに、大町・新町・前小路・荒町・工藤小路・松橋の六か村に分村された。寒河江の場合も同様であるが、戦国期城下の町的形態が、近世の村支配として位置付けられた事情を示すものである。北口村には新庄藩谷地郷の下郷陣屋も置かれたが、ともかく、支配が異り分村しても、いわゆるもと谷地の町場的な形態は維持されているのであるから、その規模の大きさが知られるであろう。

この谷地市は二・四・六・八・十の偶数日で、一五斎であった。これらは北口市が二・六、大町市五(のち三)・十、荒町市四・八と定っている。谷地地方の定期市は戦国期に吉田・溝延・大久保にもあったが、白鳥氏の谷地城の整備とともにこれら周辺の市をすべて吸収したといわれている(15)。このことは尾花沢地方でも、戦国期に発生したとみられる延沢・古殿の市が消滅し、江戸期になって幕府代官の陣屋町および宿場町として発展した尾花沢に集中・整理されたことと同じ事情であろう。

これらの市場では、山菜・野菜・穀物・薪炭など近郷農村から持ちだされるもの、また上方商品の下り物も多くなって、寛文・元禄期にはその隆盛をみた。このほか特定商品の市として、薪市(北口村横町)、お雛市(北口村)、蘇民堂市―楮市が一定の季節に日を定めて行われた。市を開くことはその町の特権であり、市に店を張るものは「見世役」を徴収された。市を開くことはその町の収益にもつながったので、市の貸借も行われ、荒町の帷子市(七月二日)、松橋の胡瓜市(六月二日~六日)は北口村の貸市として行われたといわれる。しかし貸市・延市あるいは休市が多くなるのは江戸後期になって、店舗商業が支配的となり、市の特権も動揺しはじめたことを示すものといえよう。明和八年の谷地大町の「市立前衆」の訴えによると、谷地郷の楮の売買も、大町市場の特権であったことがわかるのである(16)

村山郡における特定産物の市として有名なものに紅花市がある。紅花市の中心は、郡内第一の城下町である山形で、元禄年間までは七日町と十日町が開設の特権をもっていたが、宝永四年には「町内不残賑あいのため」、旅籠町も含め花市場を三か所にしている。山形の紅花仕入商人は、宝永年間の二〇余人から寛保末年には五〇~六〇人に増加し、流通の発展をみたが、次第に町方中心による統制の混乱が生じはじめた。元文元年にだした紅花仕入宿三三人が幕府代官所に提出した歎願書はそれを示している(17)。享保年間以後、紅花生産額は増大するが、城下町の花市がもっとも隆盛をみたのは元禄・享保年間であったといえよう。

紅花市は在郷町でも開かれた。寒河江の楯北村については先にみたが、天童宿の明細帳にも、「一、生紅花市、五日町ニ前々より立来リ、在々より参リ申候」とある。花市は、天童・寒河江・谷地および上山でも開かれ、周辺農民および中買いの山家(サンベ)が生花を市に持ちだし、在町商人がこれを集荷し、町方で干花加工が行われた。しかし山形と同様に享保末年以後、とくに宝暦・天明年間に、農村における干花加工が発達すると、町方の花市が衰えたのも当然であった。

在郷町における市は、周辺農山村の産物の換金化と非自給物資の購入のための場としての役割を果した。在郷町とその市場は、その後背地のもとに発達し、また共存する一面をもっていたのである。領主にとっても、山村農民の再生産を図り、貢租徴収の基盤を拡大し、一方流通からの一定の収入を計りながら、市場の統制を図る必要があった。

尾花沢は幕府代官の陣屋町であり、羽州街道の宿場町であるが、村高二、九〇八石余、家数三九七軒、人数一、九六三人(宝暦十一年)の在郷町であった。天明七年の村明細帳に、六斎市の市場は「近郷より罷出候、諸商ひ売買仕候」ことによって賑った。同年の尾花沢領内の各村明細帳によると、「尾花沢罷出候諸式相調申候」とする村々は、母袋・銀山新畑・細野・五十沢・次年子などの山間の村々も含まれている(18)。つまり尾花沢から三里以上の遠方に及ぶ村もその市場圏としていたことがわかるのである。

第 2 表 各在郷町の村高・戸数・人口と職人
長崎村
(寛保3)
天道宿
(宝暦12)
楯北村
(明和5)
東根村
(寛保2)
尾花沢村
(天明7)
高櫤村
(宝暦11)
村高 3,069 4,722 4,119 7,238 2,920 5,422
戸数 415 323 608 407 395
人口 2,072 1,325 2,843 2,089 1,750
鍛治 1 1 1
大工 6 1 3 4 3
紺屋 3 1 染屋3 3
桶屋 2 2 2 2
木挽 2 2
畳屋 2
酒屋 2 18 12 9
糀屋 1 醤油2
油締り 7
曲物師 曲物1
塗師8
(13) 6 4
山伏 4 2 出家23
山伏7
神主1
山伏1
2 3
座頭 2 1 11 2
医師 4 3 2 4 2
道心 5 8 10
ごぜ4
名主数 3 5 4 7 3 3
問屋 1 2
注 各村の村差出明細帳による(『山形県史』資料篇13)。とくに職人の記入が正確とはみられない。

在郷町は小地域の物資交易の場であるが、その他各種の面でもその地域の中心であった。そこには、農村にない商工業的機能と特殊技術をもつ人びとが存在した。第 2 表は主な在郷町の職業を江戸中期の村明細帳から作成したものである。しかしここで注目されることは、在郷町といっても職業は圧倒的に農業が中心であり、尾花沢村以外は、一戸平均が一一石~一三石余となっている。次に多いのは、酒屋と職人で、大工・紺屋・桶屋が中心であるが、自給的な農民生活を補充する生活用具の供給の役割を果す程度にとどまる。諸職人の数が増加し、また分化して、在郷町としての社会的分業が明らかになるのは近世後期になってからである。多くの行商人も当然各在郷町に存在したが、明細帳に記載されないのは、農民身分に変りないこと、直接諸役の対象とならないからであろう。明細帳で在郷町の諸職業の実態を知ることは限界があるが、それでも一八世紀前半のこれらの書上から知られることは、在郷町における市場の機能の大きさである。

また郡内でも一定の市場圏の形成がみられる。それは定期市日の設定から知られるように(第 1 表)、寒河江川を隔てるが、近接する寒河江と谷地には毎日交互に市が立ち、楯岡と尾花沢と東根はそれぞれ六斎市が重なることなく、同じく近接する山野辺の九斎市と長崎の六斎市も、同じ日に重って市が立つことのない組み合わせとなっている。白岩と左沢は市日が一部重なるが一定の調整がみられ、上山・天童・山形はそれぞれ市場圏が大きいので独立していたとみてよい。やはりこれらの郡内の市日の設定は、全く偶然ではなく、近世の確立期における広域の市場を前提に、それぞれ設定されたとみてよいであろう。

村山地方の在町と市場圏(略図)
注) 市神の分布は、長井政太郎『山形県の市の研究』(昭17)による。ただし、1か所(1町名)に2基以上ある場合は、1つの○印とした。したがって○印は市神の数とは一致しない。

村山郡内の在町と市がこのような形態をもって展開したのは、第一に、郡内の主な在町は戦国期の小城下の系譜をもっているが、東根・谷地・寒河江をはじめ、多くの旧城下が、山形藩最上氏の支配下に入ったのちも、その重臣に与えられ、最上氏の改易(元和八年)まで、半ば城下経営が任かされていたこと(19)、したがってこれらの小城下の町場―市場の活動が近世初頭まで続き、城下町山形に完全に吸収されなかったことがあげられる。しかも第二にこの地方は、最上氏の改易以後、幕領諸藩領に分割され、それぞれの領域の拠点が陣屋町として存在した。また所領の交替がはげしく、例えば天童宿は、正保四年の高目録で四、九〇九石余、そこには一日町・三日町・五目町・田町・小路町・中町などの地名をもつ宿場町があるが、領主は山形藩から天童藩まで、六回も支配を替えている。

第三は領域の拠点も、谷地・山野辺・大石田のごとく、町場としては一体的な集落が、領主支配の異なる行政村に分れたところもあり、そこでは惣町的な運営が必要であった。そのことも市場活動を活発にし、広域的なものにした理由とみられる。

しかし戦国期~近世初頭の定期市が、その後連続して発達したのではなかった。そのことは市の古名、市神の分布とその後の在方市との関係からもうかがわれる。越後に関する研究でも(20)、戦国期の市が廃絶したあと、一七世紀後半に新たに六斎市を開設したところの多いことが報告されているが、この点は村山地方の場合も同様であったといえよう。つまり、寛文・元禄年間になると、全国的な商品流通の展開の中で、在町および市場も画期的な発達と変化をみる。いわゆる在町もいくつかの行政村に分割され、名主役の増加がみられたのもその現われであろう。のちにみるこの時期の在町商人の活動も、新たな在方市の展開に照応したものであったとみられる。

(3) 在方市の衰退

享保期以後になると、在郷町の市にも種々の問題が起っている。谷地の特定商品市にみられた貸市や休市もその一つの現われであるが、新庄藩では享保元年、谷地郷北口村を町方に公認して、北口町とよぶこととし、町方以外での商業を禁止しようとした。これは同藩の七ヶ町制設定の一環であるが、享保七年以後も、町方の店を許可する一方、「村々見世売り」、「在々において小見世出し」をしきりに禁止する触れをだしている(21)

宝暦十二年の同藩の触書によると、六斎市の場所も改めて確保するとともに、「在々より売出候品、不残右市場へ持参致商売候様」に命ずるとともに、南北市場より二人づつ世話人をきめてこれを取締り、とくに炭・薪・青物類はこれまで通り市日にだすこと、「惣商物出買等致間敷候」とした、また同定は、谷地周辺・庄内・仙北など他所からきた商人はすべて、四日町、十日町それぞれ定められた問屋(各二軒)に届けでること、両町には商人頭を一人づつ立てること、旅人の宿屋は本町通りとし、木戸外に宿泊することを禁ずるなどのくわしい内容となっているのである。しかし安永四年の定では、薪売りについて、人込みの中を通り、怪我などの危険もあ るとの理由で、「市日之外平日構無之候」とし、これまでの定めを変更している。

つまり享保年間になると、町方の常設店を奨励し、町場外での商業活動が問題になっている。生産者農民の間にも、農産物の販売で市場へだすことに抵抗を示す動きがでてきたのである。町方商業を中心とする新庄藩の統制の強化は、市商業の維持を図ることでもあった。宝暦十二年の触書はまさに注目すべき規定であるが、しかし市商業の後退は、次第に自ら認めざるをえなくなっている事情も知ることができる。

明和八年十月、谷地大町の「市立前衆」が、楮市の定めに違反したものを訴える一件が起っている(22)。前述したように大町の蘇民堂市は楮市として古くから認められ、ここには葉山山麓の吉田.笹川方面を中心に生産された楮が持出され、日和田の製紙家がこれを主に買いとっていた。その市は、毎年十月二日から十日まで立ち、大町では販売者より「見世賃」を徴収することになっているのであるが、訴えによると、下郷の楮生産者がこれまでのように市に持ちださず、各村々や途中の道路などで楮を売払うものがあるというのである。とくに立前衆の代表が笹川村に向ってこれを正したところ、すでに先年より楮はこの村で売買してきたと言い張ったので争いとなり、新庄藩北口代官所への伺いとなった。その結果は、産地の直買いが禁止となり、大町の楮市の権利は認められることになったのである。しかし安永四年にも、北口代官所より、吉田・岩木・大久保各村に対して、楮の出買いを禁止する通達がだされたところをみると(23)、市以外での直売買は止まなかったことが知られる。

旧来の市は新市の設定の動きにも打撃をうけた。左沢では四・九の六斎市が公認されていたが、安永六年に、宮宿村に市場設置の動きがあるとして、新市設置反対の願書をだしている(24)。これによれば、「当御町之儀は、月々六斎之市日を以小商等仕、諸上納物次々其渡世仕候もの共過半御座候」とのべ、官宿村に市場が立つことになれば、米沢(置賜)境をはじめ、五百川筋にも大きな影響を与えること、とくに青苧市が宮宿村にも立つことになれば、左沢の市の衰微はもちろん、町の行詰りにもなるというものであった。宮宿は左沢と同じ松山藩領で、中郷村が正式の行政村名であるが、東五百川郷の中心の位置にある。

左沢の市はこの頃も、領内村々の物資交易の最大の場であること、とくに五百川方面の青苧生産の集散地として、古くからの機能を維持していたことがうかがわれるのである。しかし新市の設置は、宮宿商人を中心とする動きとはいえ、青苧生産者のこの時期の要求の反映とも考えられる。従来の在郷町中心の市場体系の動揺を示す一つの事例とみるべきであろう。