近世在方市の展開と元禄期商人
―羽州村山地方の場合―

横山昭男著

一 はじめに

元禄期は全国的に、社会・経済および文化の各面で顕著な発展の様相を現出したことは周知のことである。それは一般に幕藩制的全国市場の確立のもとに展開したものであるが、この時期の社会発展についての研究者の見解は必ずしも同一ではなく(1)、また各地方における具体像は必ずしも明らかではないといえよう。その理由の一つは、この時期の史料的な制約による。そしてそのこともその後の社会の急激な変動との関係もある点から意味のあることである。

この時代の社会変化および商品流通の発展が、いかなる条件のもとに起ったのか、そこには地域的な差異も無視することができない。その変化・発展の諸相が、地域的具体的に明らかにされるところが少なかったが故に、その後の歴史展開の特質とのかかわりについても問題にすることが少なかったのである。

小論が主たる対象とする羽州村山地方は、日本海の酒田を河口とする最上川の中流部に開けたところで、正保年間の出羽一国絵図の村山郡石高は三三万七千石余となっている。寛文年間までは山形藩が二〇~一五万石余を領地としてほぼこの地方の半ばを支配していた。しかしその後は一○万石余に縮少し、その他は上山藩(三万石)、松山藩左沢分領(一万二千石)、新庄藩谷地郷(二万石)、旗本高力氏(一万石)などが分封し、山形藩の縮小分は幕府領の増大となったので(元禄七~正徳四、尾花沢代官、諸星内藏助、村山郡一五万石余(2))、村山地方はまさに幕藩諸領の分散錯綜地帯となった(3)

これらの諸領主に属する各地域が、経済的に緊密な関係をもつようになるのは、その背景に、全国市場の確立とともにこの地方の商品流通が盛んとなり、その一大動脈として最上川水運の発達したことがあげられる。

この地域にはすでに中世末の戦国期に、小城下町として発達した東根・寒河江・谷地・山野辺・楯岡などが平野部に存在する。近世になるとそれらは、それぞれその地域の経済的拠点となり、陣屋町または在町として発展した。山形・上山および新庄は、それぞれの領域における政治・経済の中心たる城下町であるが、多くの領域が分散的である一方、経済的関係の大部分は、最上川水運によって「酒田一方口」ともいわれ、全国市場との結節点を同じくしていることにも注目すべきである。これは、東が奥羽山脈、南は白鷹山、そして西は出羽丘陵に囲まれた山形盆地を中心とする村山地方の地理的条件にも規制されている。

このような条件のもとで元禄・享保期における村山地方の商品流通はどのように展開したのであろうか。これまでも、譜代的な都市特権商人の没落や新興商人の台頭による酒田問屋仲間の危機をめぐる問題は指摘されているが(4)、この時期の商品流通の問題を中心にとりあげた研究は少い。享保期におけるこの地方の社会的・経済的な変化を示すこととしては、享保八年の長瀞一揆があり、最上川水運支配の面では、その同じ年、それまで最上川船差配を独占してきた大石田河岸商人のそれを廃止し、上郷川船差配役制が成立した。また享保二十年、幕領の年貢米代金納の換算を五か所(左沢・山形・東根・新庄・酒田)相場の平均としたこと、さらに同年、京都紅花問屋十四軒仲間が公認されたことなどがあげられる。これらはいずれも、それ以前の新たな商品流通の発展への対応としてとられたものである。

川船差配および十四軒仲間の新仕法に対しては、成立直後から競合による反対運動が絶えず、一八世紀末にはいずれも事実上廃止となる。つまりこれらは一八世紀の経済的関係と地域的条件の中で生れた新機構であった。これに対して代金納の五か所相場基準は以後幕末まで踏襲される。米価をはじめ酒田相場が、流域地帯の物価に強い影響を及ぼしたことはいうまでもなく、それは近世初頭にさかのぼるであろう。

これらの諸現象および新制度は、まさに流域の社会的経済的一体性の深化の表現ともいえるが、それらが享保末年に集中したその背景について注目すべきであろう。ここではその前提となる元禄・享保期の市場構造を、とくに在方市場の展開の面からとらえ、またその担い手であった在町商人の活動の分析を通して、元禄期社会の一側面を明らかにしたいと思う。