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山形農林学会報(J. Yamagata Agr. For. Soc.) 34:77-78. 1977.

砂ばくの急ぎ旅

渡部 俊三
(山形大学農学部)

A jet tour of desert land
Shunzo WATANABE

 このたび、私は二度目の海外旅行をする機会に恵まれた。とは言っても、今回は約3週間で、インド、アフガニスタン、エジプトをかけめぐる、いわばジェット旅行で、キツネが鼻をかくして、アブラゲ屋の前を通りすぎたようなものだと自分では思っている。それでも、日本から見れば、何れも乾燥の世界であり、砂ばくに生きる人々の姿は、異様なものとして深く私の脳裏に残った。

 あるいは、私の印象記が、これから新知見を求めようと旅する方々に、多少は役立つのではないかと思い、拙い筆をとることにした。

1. インドで

イ. ボンベイ市周辺

 暑いことは、もとより覚悟の上であったが連日36℃を越す暑さは、まず食欲をうばう。食欲を低下させるもう一つの原因は、町中にただよう臭気だ。何と表現したらよいのか、ほめて動物園の匂いとでもしか言いようがない。そこにうごめく黒い人間の群れは、やせ細った動物のよう。 

 私はインドを知らなかった。あの惨状を目にした者は、インドの国情をだれ彼となく訴えたくなるであろう。バングラデシュの飢餓を私達は知っている。インド第2の都といわれるボンベイで見た貧しい人々の姿は、それと余りに似ていたのである。

 私は芥川竜之介の"クモの糸"を思い出す。奇才芥川はあの地獄絵図を見たのであろうか。ボンベイの街で、物乞いをする子ども達の目は"生きたいのです!"と叫んでいるように見えた。人はなぜ生きねばならぬのかなどと思いなやむ方は、インドの一人旅をされるがよかろう。

ロ. デカン高原の自然と農業

 6月だというのに、何という暑さであろうか。乾いた空気が、人間から、牛から、そして草木や地面から、すっかり水分をうばってゆくような感じがする。デカン高原に一歩足をふみ入れて、まず、そのすさまじさに仰天した。ここでは、人間の活動がほとんど抑えられ、火炎放射機のように太陽がすべてを焼きつくしてしまう。

 見渡すと、広い平野には枯草と、砂ばくに耐える灌木のたぐいが点々と生き残っているのみ。緑がない。所々に見られる農耕地とおぼしき土地は、乾ききって、固まってカチカチになっている。

 やっとのことで牛耕中の農民を見つける。耕耘機など、ついに見かけなかったから、ここでは上層の農民なのであろうか。やがて来るであろうモンスーンに備えてイネを播く準備をしているのだという。そのやせこけた牛と、木製のインドすきは、昔さながらで少しも進歩がないように思えた.。

 どの位収量があるのかという問いには答えてくれなかった。モンスーンの順、不順が穀物の収量を左右し、それが社会全体の死活を制する自然農業の実態では、収量予想などは問われても、おそらく答えられないのであろう。ガイドのインド青年は言う。"インドの農業はギャンブルみたい。雨にかけるのです。これを無くすには、国が潅漑事業を進めてくれなくては・・・・・・"と。さらに彼の説明は続く。"インドの農業の発展をさまたげているのは水だけではありません。地主と小作人との関係です"。イギリスの植民地支配のなごりという言葉こそ出なかったが、彼は枯れた井戸を指さし、こう慨する。やはり、農業は水に恵まれた所においてのみ栄えるのであろう。

2.アフガニスタンで

 インドで受けた重いショックからたちなおれないままに、東西文化のルツボといわれるアフガニスタンに飛ぶ。虫はいないか、水は飲めるかなど神経をとがらせての旅ではあったが、主都カブールは標高が高く、空気は乾燥しきっていて、実にすっきりした町であった。

 気候も大切なポイントだが、町を行く人々の顔立ちが気に入った。坊主刈りした青年がやって来る。青々としたその頭髪と目鼻だち、皮ふの色、どれをとっても日本人そっくりではないか。モゴール族の血をひくのであろうか? なれてきた目で見るとアラブ系のトンガリ鼻もいた。"あれはアメリカ人だろうか?"思わずふりかえる。ブロンドの青い目の娘だ。この疑問を日本大使館で解いてもらった。曰く、"おそらくアレキサンダー大王の家臣の末えいでしょう・・・・・・"と。"ほんとですか?"カブールは不思議な町であった。

 もっとびっくり仰天の場面に遭遇した。遊牧民には近寄らないようにとの大使の注意があったこととて、望遠レンズを使っておそるおそるのテント村撮影がはじまった。何しろこちらは珍らしがり屋だから、そしてまた、せっかくはるばるとやってきたのだからと。それがどうしたはずみか、数分後には遊牧民のテントの中で紅茶を飲まされる所にまで発展してしまった。ポケットの正露丸をにぎりしめながら、ふるえる手でコップを持つ。眼をつむって飲みほす様をムービーカメラがとらえていた。友好親善は、時には勇気がいるという貴重な体験であった。

 インドのデカン高原よりもさらに乾いている大地を進むと、所々に緑に囲まれた村々が点在する。近寄って車をとめると、豊富な水源に驚かされる。これは中東ではおなじみの地下潅漑水路を利用したもので、コムギも果樹もこれからの配水をたくみに利用して作られていた。

 カブールの町の西南に博物館があった。現館長は20年ほど前、梅棹先生のモゴール族調査のガイドをつとめた人。その奥さんが日本人とは何たる天の助け。とばかり館内をくまなく撮影させてもらう。説明ではこの中ではガンダーラの仏教に基づく美術工芸品、ヌーリスタンの木像、国内各地の民族衣装が見ものだという。ここで見た仏頭は、われわれの持つイメージとは違ったもので、第一に頭髪がちぢれ毛ではない。一見ビーナス像のようでよく見ると確かに仏像のよう。その西洋風仏頭の口もとには、かすかな紅が残っていて何ともはや生きボトケのような、なまめかしさ、東西文化の混交をここにみたような気がした。

 夜、ホテルの窓を開ける。涼しい風と共に高らかにコーランを詠唱する声が流れてきて、ああ、イスラムの国に来たのかとしみじみ思う。昼に見たすてきなマスクの仏様のことを思い出し、下手なスケッチをしようと机にむかったが、そのまま眠ってしまったらしい。気がついた時には部屋の中がすっかり冷えきっていた。

3.エジプトで

イ.燃えるカイロ

 ナイル川のほとりの濁った水の出るホテルで、仕方なしにシャワーをあびる。機上で見た砂ばくの景色を思い浮かべ、もう水の不平は言うまいと思うのだが、水が飲みたい、きれいな水で体を洗いたいという気持ちを捨てきれない。カイロ市内をナイル川は悠々と流れている。"エジプトはナイルの賜物"などというけれども、町の中では、よそ者にはその恩恵がよくわからない。

 言葉はいよいよわからなくなってきた。おさだまりのコースということで、市内の国立博物館に入る。冷房もなく、ゲンナリとした体で館内を見てまわる。ぼう大な石の芸術にあきれてしまう。見物客の大半は外国人で、暑さもものかわと見て歩いている。ヘトヘトと通路わきのイスに腰をおろす。ふと見るとこれはまた偉大なカブトムシ?の彫刻。これがフンコロガシとかいう虫だということはガイドの説明ではじめて知る。ツタンカーメンよりも、この愛すべき虫の姿の方が私には強く印象に残った。広がる砂ばく、ラクダ、そそり立つ宮殿、あでやかなクレオパトラ、謎のピラミッド・・・・・・。写真や映画で見ているものは虫けらよりも新鮮味がなかった。

 カイロの町は、日中は焼けただれた炉のようで、おせじにもほめられない。夜は夜とて涼しいという表現にはならない。こんな酷暑の中で暮らす人々にとっては、アラーの神も必要なのだろうか、などと思いたくなる。

 冷房の効いた高級レストランで夕食をとる。ナイル川の魚を食う。肝炎だろうとコレラだろうと、もうどうでもいいやとばかり大きなシーバスのフライを注文する。うまかった。翌日はトイレの使用回数がとたんに増え、秘蔵の梅ぼしをかみしめ、断食の行をせざるをえないはめとなった。

ロ.アスワン近郊の農業

 エジプトの農産物といえば綿花が代表的なものと思っていたが、コメ、ムギの生産がそれの5倍以上もあるときかされて、改めてびっくり。ナイル川水資源の利用の近代化が農業を大きく変えたのであろう。そのナイル川の上流ナセル湖に近いアスワンまで飛んだ。上空からの眺めは、はじめて、ナイルはエジプトの母であることを示してくれた。

 アスワン近郊の農村は、耕地と砂ばくとが背中あわせになっていて、灌水できる土地から、ちょっとでも離れると、もうそこは不毛の地であった。その生と死の隣りあわせた地帯の農家をたずね、ここでもまた紅茶のもてなしにあう。旅人をもてなすエジプト人の心根にうたれ、ついおかわりをする。もう体の中は、あやしげな水でどうにかなっているのであろう。

 ともあれ、朝と夕方しか働けない砂ばくの農業は悲しい。水に恵まれた所においてのみ農業生産と人間の生活が可能だと、再び自分に言いきかせながら、砂ばくの国から古都ローマに逃げた。思えば、長く、つらい水とのたたかいの旅であった。