佐久間文庫 由来

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佐久間文庫の由来

二本松藩士渡辺治右衛門-(1767-1839)は、天明8年22才で会田安明(1747-1817)の門弟となった。そして、寛政9年31才のとき二本松に帰ってからは、江戸から安明の著書を借用して伝写につとめた。

渡辺一の門弟に佐久間正清質(1786-1854)、庸軒佐久間二郎太郎纉(1819-1896)、完戸佐左衛門政彜(1782-1865)、市野(市川)金助茂喬、葛西通之亟泰明などが出た。このうちで、佐久間質・纉父子の跡をついで、佐久間綱治成己(1851-1873)、佐久間広吉(1860-1907)が三春で佐久間派を守り、明治の末年に及んだ。この間に弟子を養うこと数千人の多きに達している。

一方、二本松の完戸政彜の後には、信夫の丹治賜庄作、佐藤元竜田、尾形貞蔵、長沢忠兵衛、長沢辰蔵、助川音松、安達の植野善左衛門らが、和算の最後の花を咲かせた。

時たまたま慶応2年、広島の法道寺善の来遊があり、和算の最高峰に位する転距軌跡、およびそれに伴う重心問題が、丹治庄作、尾形貞蔵らによって研究された。その成果は、福島市の近郊の(例えば黒岩虚空蔵の)算額に今日も見ることができる。

この文庫は、これらの人々が研究して書きしるした著書、および会田安明、渡辺一の著書の伝写などから成っているものである。今回、佐久間纉の孫に当たる佐久間森一道翁の好意によってこの文庫が山形大学に寄贈されることになった。会田安明の150回忌に際して、昭和41年8月につつがなく会田の郷里の山形大学に帰ることになったのである。

この文庫は、会田安明から発した最上流算学の永遠なる記念となるのみでなく、わが国和算の真髄を如実に示す貴重なる文化財といわねばならない。

なお、同じく会田の150回忌を卜して、山形市長大久保伝蔵氏の御好意により、山形市教育委員会所蔵の和算書120冊も本学に寄託されたことを併せ記しておく。

出典:『佐久間文庫目録』昭和42年11月,山形大学